「渡る世間は鬼ばかり」「春日局」「おしん」などの名脚本家死去
死因や晩年、熱海に移り住んだその理由や安楽死について
「渡る世間は鬼ばかり」など数々のヒット作を生み出した橋田壽賀子さんが亡くなりました。
95歳。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
橋田壽賀子さんは、統治下だった韓国ソウルで生まれ東大進学を目指すほどの学力を持ち、41歳で夫となる岩崎嘉一さんと結婚しました。
子供はおらず、また夫も先立ったため、晩年は静岡県熱海市で執筆活動を続けながら、就活に取り組んだり、安楽死を望む発言をしたこともありました。
橋田壽賀子さんの晩年や愛された作品を数多く残した経歴などを調べました。
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目次
橋田寿賀子現在は熱海で安楽死希望?
橋田壽賀子は現在熱海在住
昭和の偉人がまた旅立ちました。
『渡る世間は鬼ばかり』『春日局』『おしん』などを生み出した名脚本家の橋田壽賀子さんが亡くなりました。
速報が流れたのは4月5日でしたが、前日の4日午前中(9時頃)にご自宅のある、静岡県熱海市で亡くなったそうです。
速報が流れた時には、既に火葬も済んだ後だったらしく、橋田壽賀子さんを「ママ」と呼んで慕っていた泉ピン子さんが、最期を看取り、火葬場にも列席したそうです。
引用:徹子の部屋
橋田壽賀子さんは、当時統治下だった韓国ソウルで生まれており、9歳で大阪に帰国しています。
高校まで大阪で過ごし、日本女子大学進学のため、大学時代から東京に住んでいます。
その後、第一線の脚本家として活躍し続けているので、現在まで熱海に住んでいたことは意外ですが、熱海での悠々自適な生活は、何度も『ぴったんこカンカン』で放送されていましたね。
橋田壽賀子さんには、死別した夫がおり、橋田壽賀子さん64歳の時でした。
夫の死因はがんだったのですが、夫の繊細な性格と当時のがんは治りにくい病気という性質もあったのか、橋田壽賀子さんは妻として、がん告知をしませんでした。
そういった背景もあったのか、少しでも療養によい地として、別荘地で有名な熱海に、晩年の夫と居住先を移したようです。
橋田壽賀子は安楽死希望
橋田壽賀子さんは、年齢を感じさせないくらい精力的に仕事を続け、つい最近まで、テレビにも出演していました。
懸命に仕事をして、年に1回船旅をするというのが、趣味。
そのために足腰を鍛えているので、見た目も健康への気遣いも若々しい印象でした。
しかし、本人の気力とは別に、年齢は誰しも重ねるもので、
『終活をしている』『たくさんの本は図書館に寄贈した』『バッグは売った』
などと発言していました。
そんな橋田壽賀子さんを検索すると『安楽死』というキーワードが出現します。
どういったことなのでしょうか?
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これは、橋田壽賀子さんの作品です。
橋田壽賀子さんは、これまでの作品を見ても分かりますが、1本筋が通った女性。
夫もいない現在は、誰にも迷惑をかけずに死も自分で選択したいという強い思いで、終活にも積極的でした。
安楽死についても、同書で意見を述べていますが、晩年の橋田壽賀子さんはまた執筆活動に意欲的で、安楽死も諦めたと語っています。
橋田壽賀子さんにとって、作品はおそらく子供のようなもの。
愛してくれるファンがいて、もし自分がこの世から去っても読み続けてくれることが生きる喜びになって、いつまでも若々しくいらっしゃったのかなとも思えます。
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学歴や夫との馴れ初め 文化勲章受章まで
高学歴で東大も?
前述したとおり、橋田壽賀子さんは9歳までソウルで幼少時代を過ごしました。
9歳で帰国した理由は、勉学のためでした。
橋田壽賀子さんが進学した大阪府立泉陽高等学校(当時の学校名:大阪府立堺高等女學校)で偏差値は67です。
出身有名人は、橋田壽賀子さんの他、沢口靖子さん(俳優)、与謝野晶子(歌人)さんなどがいらっしゃいます。
(現在は共学です)
その後、学者になることを夢見て日本女子大学文学部国文学科に進学しました。
(偏差値55)
大学卒業後、更なる勉強をと、東大受験するも不合格だったため、併願していた早稲田大学第二文学部国文科に進学。
まだ女性の大学進学がメジャーではなかった時代背景を考えると、橋田壽賀子さんの勉強への熱量と真面目さが伺えます。
脚本家になるきっかけ
現在の脚本家という職業へのきっかけは、早稲田大学在学中に学生劇団に入団したことでした。
役者として演じる一方、演劇の執筆をすることに興味を持ち、脚本塾に通うほど、とにかく意欲的だった橋田壽賀子さん。
一時は学者を目指していたほどの人ですから、文章を書く仕事は天職だったのでしょうが、高校時代は文章を書くことは苦手だったというのは、意外ですね。
就職したのは、「松竹」。
松竹初の女性社員で、脚本部に所属しました。
10年間勤務した後、秘書課に転属することを命じられたため、松竹を退職しフリーの作家に転身しました。
石井ふく子との出会い、文化勲章受章まで
橋田壽賀子さんが、松竹在籍時にどんなヒットメーカーだったのか、詳細は分かりませんが、もし重宝されるような人材であれば、転属命令はなかったにかなとも感じます。
もしくは、優秀な脚本家であったとしても、女性は結婚して家に入るのが慣習のような時代背景だったため、結婚を促すために秘書課に異動させたのかもしれません。
34歳でフリー脚本家に転身しましたが、仕事には恵まれなかったようです。
テレビに原稿を持ち込んでも断られることが続き、生活をするために、小説や漫画の原作を書くなどの仕事も引き受けていたようです。
そんな中、テレビプロデューサーの石井ふく子氏と出会い、ヒットメーカーとして幾つも二人で名作を生みだしました。
渡る世間は鬼ばかりもその一つですよね。
1984年:菊池寛賞
1988年:紫綬褒章
2000年:モンブラン国際文化大賞
2004年:勲三等瑞宝章
2015年:文化功労者、
2020年:文化勲章
橋田壽賀子さんは数々の受賞歴がありますが、実は橋田賞を創設したのは、橋田壽賀子さん本人で、これからの若手などの活躍も見守りながら育てる活動もしていたのです。
夫との馴れ初め
橋田壽賀子さんは41歳で結婚していますが、夫と引き合わせたのは、仕事でもタッグを組んでいる石井ふく子さんでした。
橋田壽賀子さんの夫は元TBSのプロデューサー。
また石井ふく子さんも元TBSプロデューサー。
橋田壽賀子さんと石井ふく子さんとでは、橋田壽賀子さんの方が学年は1歳上ですが、ほぼ同年代。
一方、夫の岩崎嘉一さんは橋田壽賀子さんの4歳年下でした。(一部情報では5歳年下)
仕事を通じてプライベートでも親交のあった石井ふく子さんが、橋田壽賀子さんに相性が良いと紹介したご縁で二人は結婚しています。
夫の岩崎嘉一さんは、結婚した当初は37歳頃。
およそ20年間の結婚生活が過ぎた頃、肺腺がんと診断されました。
橋田壽賀子さんは、NHKの大河ドラマ「春日局」を執筆していた頃でした。
大事な夫の突然の病に動揺し仕事どころではなかったようですが、夫には病名を伏せていたため、自分が仕事の量を減らしたりすると夫が自分ががんであると気付いていしまうと思い、逆に仕事に没頭したようです。
この頃から、熱海に居住を移し、晩年の夫と過ごしました。
熱海と東京の行き来は、決して楽ではなかったと思いますが、夫の病状を心配し夫自身を愛した橋田壽賀子さんのベストな選択だったのだと思います。、
夫の死後の橋田壽賀子 通夜やお別れの会、お墓は?
橋田壽賀子さんと夫の岩崎嘉一さんの間には子供がいませんでした。
そして橋田壽賀子さんには兄弟がおらず、両親も既に他界しています。
夫の死後は『独りぼっち』だったようです。
そういった背景もあって、自分の死後、どうするのか、どうしたらいいのかを真面目に考えている様子をテレビ等で度々、橋田壽賀子さんは話していました。
夫には兄弟はいるようですが、仲がよい状態ではなく、義理の親とも同様だったようです。
夫は、義理の母親と共に同じお墓に入っているようです。
その一方で、橋田壽賀子さんは、静岡県内に夫と橋田壽賀子さんが入るお墓を購入。
そこには、夫と橋田壽賀子さんの遺品を収め、橋田壽賀子さん自身は、愛媛県今治市にある両親のお墓に入ることを決めていました。
自分の後見人として橋田文化財団の顧問弁護士に対応を依頼しており、橋田壽賀子さんの介護や看護、財産の管理・処分など、予期できることは全てお願いしていたそうです。
さすが終活を熱心に考えていた橋田壽賀子さんというべきですよね。
橋田壽賀子さんは
と話しています。
立つ鳥跡を濁さずと言い切るのは、橋田壽賀子さんらしい美学ですよね。
また橋田作品には欠かせなかった女優の泉ピン子さんは、速報が流れた5日には、既に火葬も終えており、亡くなった4日は、熱海の自宅に駆け付け看取ったといいます。
橋田壽賀子さんほどの有名人であれば、通夜告別式と大規模なものを行うようにも思いますが、これにも橋田壽賀子さんなりの美学があって、
と言っています。
これにも立つ鳥跡を濁さずの考えが反映されていそうですね。
橋田ファミリーと呼ばれる、俳優さんたちはたくさんいますし、また橋田作品のファンもたくさんいるので、後日、石井ふく子さんや有志によって、お別れの会が開催されるかもしれませんね。
橋田壽賀子さんのご冥福を心よりお祈り致します。
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主人がなくなったときに、一人で生きるためにはどうしたらいいか考えました。『それにはまずお金だ』と思って、そこから一生懸命働きました。いま、うちには交代制ですけど、お手伝いさんが6人います。このほうが親族に面倒をみてもらうよりずっと心豊かでいられるし、私はいま、理想的な暮らしをしていると思いますね