森光子死から7年、放浪記2000回女優の死因や遺産、ジャニーズ東山紀之との関係が気になる
昭和の名女優、森光子さんが
2012年に亡くなってから7回忌。
『直撃!シンソウ坂上SP』では、
森光子さんがライフワークにしていた
『放浪記』が2000回公演を達成し、
そして降板をした真相を探るようです。
壮絶な生い立ちとは?
死因や遺産、
バツ2の真相、
恋人と呼ばれたジャニーズ
東山紀之さんとの本当の関係とは?
女優として初めて「国民栄誉賞」を受賞した
森光子さんの生涯に迫ります。
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森光子,壮絶な生い立ちから芸能界デビューまで
森光子さんが2012年に
亡くなってから、もう7回忌に
なるのですね。
『放浪記』で2000回達成し、
でんぐり返しが有名でしたよね。
昭和の名女優、森光子さんは
どんな女性だったのでしょうか。
生年月日 1920年5月9日
没年月日 2012年11月10日(92歳没)
出身地 京都府京都市
血液型 B型
学歴 京都府立第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)中退
職業 女優、歌手、司会者
ジャンル 舞台、テレビ番組、日本映画
活動期間 1935年 – 2012年
配偶者 リチャード・ウエムラ(1947年)
岡本愛彦(1959年 – 1963年)
事務所 東宝(東宝芸能)
⇒ 吉田名保美事務所
⇒ オフィス・モリ
引用:Wikipedia
森光子さんは京都府京都市出身。
母・艶は祇園の芸妓。
父親は紡績会社社長の御曹司という
両親の間に生まれました。
両親は結婚という形で
結ばれることはなく、
母親の私生児として生まれ
育ったようです。
森光子さんの女優としての
素質は、おそらく芸妓だった
母親の影響が多くあるでしょうね。
幼少時から歌と踊りが大好きで、
7歳の時にはNHKのラジオ番組にも出演。
また、母親の実家が
割烹旅館『國の家』を経営していたことから
旅館に宿泊する俳優もいたようです。
俳優の阪東妻三郎さんも
そのうちの一人で、
芸者衆を連れて訪れてる様子が、
まだ子供だった森光子さんには
とても華やかに見えたようで
ぼんやりと芸能界への憧れを持ったようです。
しかし、『國の家』はその後倒産。
両親も森光子さんが13歳のときに
肺結核で相次いで死去。
そのため在学していた
京都府立第一高等女学校
(京都一女、現・京都府立鴨沂高等学校)
を1学期で中退しています。
実家の倒産、そして両親の早世、
幼くして自分で人生を切り開かなくては
と思った森光子さんは
芸の道を志します。
当初、過激の道を志したようですが
うまくいかず、
従兄の嵐寛寿郎のプロダクション
(第二次寛プロ)に所属しました。
幼き頃の森光子さんは
松竹少女歌劇のスター、
水の江瀧子に憧れていたようです。
芸能界デビューは15歳の頃。

若い頃の森光子さんを見ても
面影ありますね。
目元が愛らしいかわいい
女性ですね。
1935年に映画
『なりひら小僧 春霞八百八町』でデビュー。
その2年後に従兄の嵐寛寿郎が
事務所を閉鎖したため
日活に移籍。
娘役として多くの映画に出演しています。
若い頃の美貌で、順調に
芸能生活を送っていた森光子さん、
気鋭の映画監督だった森一生に
プロポーズされたこともあったようです。
その後二人は婚約しますが、
すれ違いがあり後に婚約破棄。
居ずらくなった森光子さんは
映画界から姿を消したようです。
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森光子、最初の結婚と結核と死亡説について
1939年(昭和14年)10月、
映画法が制定され映画出演が
制限され始めたため、
森光子さんは歌手に転身することを
志します。(当時21歳)
1陸軍の満州慰問団に参加したり、
戦時中は日本軍慰問団で
前座歌手と巡回するなどしていました。
美声は、天皇陛下主催の
春の園遊会でも、直接
天皇陛下&皇后陛下の前で
披露したこともありましたね。
慰問団では亡くなった赤木春恵さんと
出会い、以後森光子さんが亡くなるまでの
およそ60年以上に渡り
親交を深めたといいます。
終戦後は、杉村春子さんを
生涯の演技の師匠とし、
また女優として活動を再開します。
一方でジャズ歌手として
進駐軍キャンプへの巡業も行っており、
27歳の時、そこで知り合った
日系アメリカ人2世の米軍属
リチャード・ウエムラから
プロポーズを受け婚約しています。
森光子さんにとっては2度目の婚約。
一時は、芸能界活動を辞めて、
夫に付いていくかたちで
アメリカ行きを決意したようですが
芸能界への未練があり、
決まっていた渡米をキャンセル。
日本に留まった森光子さんと
夫のウエムラさんは
婚姻関係を結んでから1週間後に
ハワイに戻り、二人の結婚生活は
すぐに終了したようです。
1949年(昭和24年)の秋には
肺結核と診断され、約3年間芸能活動を休止。
京都山科で闘病生活を送りました。
当時、結核は不治の病と言われており、
すでに結核の特効薬はありましたが
非常に高額で、芸能活動を
休止していた森光子さんには
手が出せなかったそうです。
しかし、療養先が知人の縁者だったようで
担当医師が闇で仕入れた特効薬(ストレプトマイシン)
の効果を確認するための実験台に
なるという名目で投与され、
幸いなことに一命を取り留めたようです。
その後、大阪に戻って芸能活動を
再開しようとしたようですが
3年間のブランクは大きく、
という噂が広がり、
出演のオファーが来ることはなく
森光子さんは自ら
自分を営業しに回ったようです。
手を差し伸べてくれたのは、
当時NHK大阪放送局で芸能番組担当
プロデューサーを務めていた富久進次郎。
ラジオコメディー番組
(『エンタツちょびひげ漫遊記』)に
森光子さんの起用を考えオファー。
これが喜劇女優としての
森光子さんのスタート。
この出会いまで
収入も不安定だったようですが
次第に専属契約などを結び
安定した生活を送れるようになります。
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森光子,死因と認知症の関係は?
この後に、森光子さんは
『放浪記』と出会い、以後
ライフワークとして2000回という
偉業を達成しています。
森光子さんの死因は肺炎による心不全。
亡くなったのは
2012年(平成24年)11月10日18時37分
入院先の順天堂大学医学部附属順天堂医院でした。
享年94歳。
驚くのは、その2年前まで、
『放浪記』に主演役者として
出演し続けたこと。
つまりは92歳まで現役だったのです。
晩年の森光子さんについては
あまり多くは語られていませんが、
高齢と、細身の体で、長時間の舞台を
こなすのはかなりきつかっただろうと
想像します。
森光子さんといえば、
『放浪記』内で見せるでんぐり返しが有名で
体力づくりのため
スクワットをしていることは
有名でした。
森光子さんの代表作で
ライフワークともなっていた
『放浪記』の上演中止を発表したのが
2010年(平成22年)2月。
これが事実上の活動中止になったため、
様々な憶測が生まれます。
しかし、芸能活動は自粛するも
森光子さんはその間も
自宅で静養しながらマスコミ取材に応じたり、
大好きなジャニーズ関連の公演にも
足を運ぶなどしていました。
マスコミは、『放浪記』公演中止後の
森光子さんの元気な姿を移そうと
外出する森さんを追いかけ
インタビューを試みましたが
なんとなく会話がかみ合わなかったり
また言葉に元気がなかったり
目がうつろだったりと。。。
それらから、森光子は認知症なのか?
と言われるようになりました。
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東山紀之との関係と遺産の行方が気になる
森光子さんといえばジャニーズ
ジャニーズといえば森光子さん
蜜月関係とも言われる両者の関係。
ジャニーズ事務所のタレントの中で
とりわけ『森光子さんの恋人』と言われていたのは、
東山紀之さんでした。
森光子さんが『放浪記』の公演中止を
決断したのは2010年でしたが、
ちょうど同じ年に、東山紀之さんが
木村佳乃さんと結婚します。
恋人とまで言われた森光子さんと
東山紀之さんですが、
実際の二人の関係は『恋人のような』
お互いをいたわりあう関係だったのでしょうか。
それとも大きな年の差を超えた
恋人だったのでしょうか。
それは二人にしか分かりませんが、
森光子さんがご存命の内に
東山紀之さんが結婚したことに
私たちは衝撃を受けました。
もちろん森光子さんの様子が
とても気になりますよね。
伝えられる情報としては、
森光子さんはかなり取り乱したと
言われています。
木村佳乃さんと新婚生活を送る
マンションに引っ越すとまで言われたほど。
しかし、噂が噂を呼ぶだけで
実際のところは分かっていません。
東山紀之さんの結婚にとても
ショックを受けたのか?
公の席に森光子さんは登場しなくなります。
そのとき、森光子さんは
体調を崩していました。
姿が見られなくなったのは、
順天堂大学病院に入退院を
繰り返すようになったからだったのです。
嚥下機能の低下から
食べ物が喉を通らなくなり、
随分と痩せたと伝えられます。
2011年(平成23年)からは
同院に入院。
その頃には完全に食事が
取れない状態となっており、
栄養補給は点滴のみになりました。
2012年(平成24年)2月には
誤嚥性肺炎を発症し発熱。
同年4月には胃ろう造設手術。
経腸栄養剤の投与が行われましたが
日に日に弱っていったといいます。
一旦は退院できたものの、
やはり容態は良くなく、
9月再入院、そして11月に亡くなっています。
森光子の遺産は5億とも20億とも
言われていますが
明確な数字は明らかになっていません。
森光子さんには子供がいなかったため、
その巨額とも言われる遺産の額と
遺産の行方が注目されましたが
遺産の一部を東山紀之さんに?
と言われるくらい、二人の仲は
親密だったのですが、実際のところは
分かりません。
森光子さんの唯一の肉親は、妹の息子
つまり、森光子さんの甥のみです。
実際の法定相続人もこの甥だけでしたので
おそらくこの甥が全て相続したのでは
ないでしょうか。
森光子さんの妹は、長年
森光子んさんの個人事務所の
代表を務めていました。
しかし、森光子さんが亡くなる4年前、
2008年に亡くなっています。
妹亡き後は、その子供である
甥が、事務所の代表を引き継いだため
森光子さんにとっても大事な甥っ子ですよね。
最後に、森光子さんの2度目の結婚は
1959年(昭和34年)。
プロデューサーで演出家の岡本愛彦さんでした。
岡本愛彦さんがが5歳下だったため
森光子さんは3歳サバを読んだと
伝えられています。
かわいらしい人ですね。
ちょうどこの頃、『放浪記』
と出会っており、森光子さんは仕事に
没頭していくのです。
時代背景もあるのでしょうが、
夫の岡本愛彦さんは
家庭に入って欲しかったようです。
そんな喧嘩もしたようです。
しかし、森光子さんは仕事量を
変えることはありませんでした。
結局二人は離婚しますが、
そのあと、森光子さんは独身を貫き、
晩年は東山紀之さんとの恋人関係が
噂されるのです。
今夜放送の
『直撃!シンソウ坂上SP
【森光子さん七回忌特集】』
では何が語られるのでしょうか。
放送が楽しみです。
改めて森光子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
最後までお読みいただき有難うございます。
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