安田純平さん、解放は5回目?今後はどんなジャーナリストに?
安田純平さんが解放されました。
日本政府によって本人と確認され、40ヶ月にも及ぶ
拘束が解かれました。
どうして安田純平さんが
解放されることになったのでしょうか?
同じくジャーナリストで拘束され、
亡くなった後藤健二さんとの違いは何なのでしょうか?
身代金総額は3億円?
支払いはカタール?
日本政府は本当に払っていないのか?
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目次
安田純平の経歴は?
安田純平さんの拘束から3年余り。
40ヶ月(3年4ヶ月)にも渡る安田純平さんが
解放されたと確認されたのは10月24日でした。
家族や知人、支援者や私たちは、
一様に安堵しましたが、一方で
3年余りの間、拘束され続け、
数回の動画を公開された安田純平さんの命は
どうして守られたのでしょうか。
まず、安田純平さんの経歴から確認していきましょう。
生年月日:1974年3月16日
年齢:44歳
出身:埼玉県入間市
学歴:一橋大学社会学部卒業
職業:フリージャーナリスト
活動期間:2003年1月-
活動拠点:中東及び北部アフリカ
配偶者:深結(Myu)
受賞:山本美香記念国際ジャーナリスト賞
公式サイト:http://jumpei.net/
一橋大学社会学部の安田純平さんの
就職先は、信濃毎日新聞でした(1997年)。
当初は脳死肝移植問題などを担当していましたが、
転機は2002年3月に休暇で訪れたアフガニスタンでした。
情勢が不安定な外国を訪れたことで、
安田純平さんのジャーナリストイズムに火が付いたのでしょう。
2003年1月に信濃毎日新聞社を退社し、
フリージャーナリストに転身しています。
(当時29歳)
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安田純平,後藤健二との違いは?
安田純平さんを語るにあたり、
後藤健二さんと比較されることが多いのですが、
後藤健二さんはどんな人物だったのでしょうか。
経歴を確認していきます。

名前:後藤 健二(ごとう けんじ)
本名:城後 健二(じょうご けんじ)
生年月日:1967年9月22日
出身地:宮城県仙台市
死没:2015年1月30日
享年:満47歳
死没地:シリア ラッカ県ラッカ付近
学歴:法政大学社会学部
職業:ジャーナリスト
活動期間 1991年 – 2015年
肩書き インデペンデント・プレス代表
宗教 キリスト教
子供 3人(全て娘)
家族 妻・城後倫子
受賞 産経児童出版文化賞
公式サイト http://ipgoto.com/
2015年に亡くなった後藤健二さんという
ジャーナリストがいました。
出身大学は法政大学社会学部応用経済学科(現・社会政策科学科)。
法政大学在学中にアメリカのコロンビア大学に語学留学。
同大学在学中に湾岸戦争(1990年8月2日 – 1991年2月28日)が勃発。
後藤健二さんは、すぐに行動に移します。
イスラエルに渡航して現地の大学生に話を聞きに行きます。
この行動こそが、後藤健二さんの
ジャーナリストの出発点だったと、
後藤さんの兄が語っています。
大学は違えど、社会学部という
同じ学部でジャーナリストという々職業。
44歳の安田純平さんと
ご存命であれば51歳の後藤健二さん。
ほぼ同世代の二人の生死を分かれる違いは何だったのでしょうか?
グループに誘拐された。
後藤健二さんはISの戦士に捕まった。
安田純平さんは、解放されて
帰国する飛行機の中でこう語ります。
平たく言えば、安田純平さんが
どこの国出身でも良かったということですね。
日本人でなくても韓国人でも、
どの国でも良かったのです。
その国の政府から身代金として
一定額を奪うことが出来れば、犯人グループは
満足だったのでしょう。
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解放何回目?身代金総額3億円カタール払った理由は?

引用:http://livedoor.blogimg.jp/
≪ラストチャンス2回目≫
引用:http://livedoor.blogimg.jp/
≪ラストチャンス3回目≫
引用:http://livedoor.blogimg.jp/funs/
≪ラストチャンス4回目≫
引用:Nスタ
今回が、つまりは4回目ということになりそうです。
身代金は3億円。
国際的人道支援を内外にアピールしたかったと言われる
カタールがこの金額を支払ったとされていますが、
真相は不明です。
日本政府は、身代金を支払っていないと公表していますが、
カタールが、自国の国民ではない
日本人の命を助けた理由は何なのでしょうか。
いま現在、カタールが身代金3億円を支払った
真相は不明ですが、
これから安田純平さんの解放劇の裏側が
徐々に明らかになっていくと思います。
最後までお読みいただき有難うございます。
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