黒髪で切れ長の目、元祖アジアンビューティーモデルは資生堂専属モデルだった
モデルとして活動していた山口小夜子さん。
パリコレモデルとしても草分け的存在です。
山口小夜子さんの死因は、2007年に急性肺炎。
今回は、そんな山口小夜子さんの生い立ちや壮絶と言われる晩年、結婚せず独身を貫いた理由など調べてみました。
山口小夜子、晩年は孤独死で死因が衝撃!結婚せず独身貫いたのは生い立ちが影響?
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目次
山口小夜子晩年は孤独死で死因が衝撃!
山口小夜子経歴
山口小夜子さんは、京浜女子大学横浜高等学校杉野学園ドレスメーカー女学院に通い、卒業後の1971年にプロのモデルとしてデビューし、高田賢三さんや山本寛斎さんのショーで注目を集めます。
1959年には、ルイ・フェローさんに見い出されてアジア系モデルとして初めてパリコレクションに起用された松田和子さん、1960年にピエール・カルダンに見い出された松本弘子さんに続き、1972年にパリコレクション(パリコレ)に起用され、次いでニューヨークコレクションにも出演しました。
山口小夜子さんは、年代にパリコレクション(パリコレ)で活躍した松田和子さんや松本弘子さんのような大きな目でキュートな顔立ちのモデルとは違い、切れ長の目と黒髪のおかっぱ髪で登場し、日本人ブームを起こしました。
白い肌に切れ長の目の美しさを作り出す繊細なアイライン、高い位置のチーク、くっきり縁取った赤いリップによる山口小夜子さんのエキゾチックな顔は、ヨーロッパで熱狂的に支持され、「SAYOKO マネキン」というマネキン人形が欧米のブティックを席巻しました。
今秋公開予定のドキュメンタリー映画「氷の花火 山口小夜子」の試写会会場の入口に置かれたSAYOKOマネキン。上映に漕ぎ着けられるか微妙で宣伝配給費のクラウド・ファンディングを開始。小夜子を起用していた某化粧品メーカーはどうですか? pic.twitter.com/A1l9ZQ5BrN
— 三浦彰WWDジャパン編集委員 (@miura0907wwd) July 3, 2015
引用:Twitter
現在でもアナスイニューヨーク店で使用されています。
そして、1973年から1986年まで、資生堂のモデルとして専属契約を結び「美」の普遍的イメージを国内外に発信していき、
1973年の『シフォネット』のポスターは、ハーフモデル全盛の時代に、黒髪おかっぱのいかにも「日本人らしい」モデルの登場を鮮烈に印象づけ、時代の転換点を体現しました。
引用:YouTube
モデルとして活動しながら、ファッションデザインや服飾品のプロデュースも幾度となく担当し、1977年には、雑誌『ニューズウィーク』の「世界のトップモデル6人」にアジア人で初めて選ばれました。
その後、モデルとしての活動の傍ら、舞台および映画女優としての活動も開始し、寺山修司演出の『中国の不思議な役人』の稽古で天井桟敷のメソッドに触れ、飛躍的に表現の幅を広げた後、翌1978年には映画『杳子』、1981年には重信浩演出による半自叙伝的舞台『小夜子:山口小夜子の世界』(で主演を務めます。
その他、演出家である佐藤信さんの舞台『忘れな草』、国際エミー賞ほかを受賞したNHK音楽ファンタジー『カルメン』、江戸時代から続く糸あやつり人形劇団 結城座の人形たちと共演した『ペレアスとメリザンド』など多くの舞台に出演しました。
一方で、舞踏やダンスの分野にも活動の場を拡げていき、1986年には、パリ市立劇場を拠点として活動する舞踏グループ 山海塾からメソッドを学び、横須賀功光さんの撮影による写真集『月 小夜子/山海塾』で共演しました。
また、音楽や舞、ファッションショーが一体化した壮麗な舞台の出演者としても、林英哲さん、山本寛斎さん、和田勉さん、毛利臣男さん、天児牛大さんらとのコラボレーションを行った数多くの仕事があり、さらに、クリエイターとしても舞台の衣装を数多く担当しました。
自らも出演した天児牛大演出のオペラ『青ひげ公の城』で、衣装デザインを担当したほか、フランス・リヨン国立歌劇場で初演された、同じく天児牛大演出のオペラ『三人姉妹』(1988年)の衣装デザイン、2004年の佐藤信演出のふたつの舞台『リア王の悲劇』の衣装デザイン、結城座公演『夢の浮橋~人形たちとの<源氏物語>』の人形デザインおよび人形遣いのスタイリングも手がけました。
死因や衝撃の晩年
しかし、2007年8月14日に死去。
死因は急性肺炎。享年57歳
葬儀は、親族だけで執り行われ、お誕生日の9月19日にお別れの会が開かれました。
生前、最後の出演映画となった『馬頭琴夜想曲』にて、その1週間ほど前に会ったばかりだったという、同作の木村威夫監督は「体調が悪い様子はなかった」と語っている事から、いかに急逝だったかが伺えます。
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結婚せず独身貫いたのは生い立ちが影響?
黒髪のモデルとして大人気だった山口小夜子さん!生い立ち
山口小夜子さんは、1949年に横浜で生まれ、横浜の外国人墓地の地域で暮らしていたようです。
幼い頃からオシャレが大好きだったのは、洋裁が得意な母親の影響で、母親は山口小夜子さんに洋服をどんどん作っていたようです!
しかも、それはありきたりのその辺にある洋服のデザインでなく、見本にしたのは”最先端の海外ファッション雑誌”でした。
雑誌を参考にして、斬新なデザインの洋服を山口小夜子さんに着させたようです。
今のようにアパレルメーカーがそれほど発達しなかった時代であり、自分の着たい服は作る人も多かったようですね。
さらに、山口小夜子さんは、出来上がった最先端の洋服を着て、母親の前でファッションショーをしていたようです!
まるでモデルのようなことを、小さい頃から好きだったようですね!
しかし、最先端なオシャレな服を着ていたので、同級生からは浮いてしまい、虐められていたようですが、山口小夜子さんは、流石に幼い頃から美的感覚があったので、どんなに学校で虐められても、洋服で目立ってもオシャレを楽しむことは辞めなかったそうです。
学生時代は、日本の雑誌とともに、当時アメリカで人気のあった Seventeen を買うのが何より楽しみで、気に入った服を見つけては母親に作ってもらい続けそうで、そうやって文化をまたぎ自分なりのおしゃれを探す中、山口小夜子さんは海外の雑誌と日本の雑誌にはなにか根本的な相違、ファッションに対する価値観に違いがあることを感じていたようです。
ただ、この虐めによって、自分の殻に閉じこもっていたようです。
結婚せず独身
そんな山口小夜子さんのプライベートはあまり明かされていないようですが、結婚はしておらず、独身でした。
こんな美女がなぜ独身だったのでしょうか?
山口小夜子が生涯独身を貫いたのは、不倫関係が長引いたからという噂があります。
不倫相手は諸説ありますが、ファッション関係の人では?と言われているようです。
まとめ
山口小夜子さんは、2007年に急性肺炎のため、亡くなりました。
ご冥福をお祈りします。
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