テレサテン没後23年、台湾で異例の土葬は蒋介石以来?圧倒的な歌姫の死因の真実は?
テレサテンといえば、
『つぐない』
『愛人』
『時の流れに身をまかせ』
『別れの予感』などなど。
今でも歌声を思い出すことが出来る
圧倒的な歌唱力の台湾の歌姫でした。
その死から23年。
昭和の大スターの死の真相が
『爆報!THE フライデー』で明らかになるのか?
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目次
テレサテン経歴とアジアスターになるまで
つぐない(1984年1月21日)
愛人(1985年2月21日)
時の流れに身をまかせ(1986年2月21日)
スキャンダル(1986年11月21日)
別れの予感(1987年6月21日)
普段は歌謡曲を聞かない私ですが
テレサテンさんが歌った数々の歌声は
歌詞カードを見なくても口ずさめるほどです。
テレサテンさんの死から23年。
当時私はまだ学生でしたが、
とても驚いたのをよく覚えています。
まずは、テレサテンさんとは
どんな歌手だったのでしょうか。
経歴を確認していきましょう。
出生名:鄧麗筠
別名:小鄧、アジアの歌姫、軍人の恋人
生年月日:1953年1月29日
死没日: 1995年5月8日
享年:42歳没
出身:中華民国(台湾) 雲林県褒忠郷田洋村
死没地: タイ, チエンマイ県チェンマイ
職業:歌手
ジャンル:演歌、C-POP、J-POP
レーベル:Polydor/PolyGram、EMI、Taurus Record
活動期間:1967年 – 1995年
引用:Wikipedia
テレサテンさんは、
父親が中国河北省邯鄲市出身
母親は中国山東省出身の
外省人の夫婦の間に生まれました。
父親は元国民党軍の職業軍人で
三人の兄と弟一人という男兄弟に
生まれ育ちました。
歌唱力が注目されたのは僅か10歳の時。
ラジオ局主催の歌唱コンテストで優勝したことで
天才少女として注目を集め、
14歳の時にはプロ歌手としてデビューしています。
テレサテンさんの才能は歌だけではなく
デビュー2年後の16歳の時に
主演映画が製作され、女優デビューも。
それらの活躍が中国、台湾以外にも
シンガポールやタイ、マレーシアなど諸外国でも
人気に火が付き、名実ともに
アジアのトップスターとなっていきます。
日本に進出したのは20歳の時、
舟木稔(のちの彼女の所属レコード会社トーラスレコード社長)が
アジアでの人気に注目し、
テレサテンさん本人と両親を説得。
翌年21歳の時に日本デビューを実現させます。
日本でのデビュー2作目「空港」の大ヒットにより、
第16回日本レコード大賞新人賞を獲得。
若い台湾の歌姫が誕生した瞬間でした。
その後も香港を拠点に、台湾や日本など
アジア各地を行き来する『アジアの歌姫』として
精力的に歌手活動を行っていました。
また父親は元国民党軍の職業軍人で
あったことや
歌手として軍隊への慰問活動を熱心に
行っていたことから「軍人の恋人」
と呼ばれることもありました。
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テレサテン死因の真相①, タイのチェンマイで恋人ステファン・ピエールと喘息療養していた
テレサテンさんの死が、私たちに衝撃を与えた理由は
・42歳という若さだったこと
・当時恋人だったステファン・ピエール氏と一緒にいたこと
・死因について憶測が様々噂されたこと
ではないでしょうか。
発表されているテレサテンさんの死因は
持病と言われている
気管支ぜんそくの発作による呼吸困難でした。
死の直前、テレサテンさんは
どこで誰とどのように過ごしていたのでしょうか。
テレサ・テンさんが亡くなったのは
23年前。
1995年5月8日の夕方でした。
テレサテンさんは、風邪の療養の目的で
1ヶ月前から
タイ北部のチェンマイに滞在していました。
一緒にいたのは、当時恋人だった
フランス人カメラマンの
ステファン・ピエールさんでした。
引用:https://middle-edge.jp/articles/I0000646
2人は7年前から恋人関係にあったようで、
10歳年下の駆け出しのカメラマンの彼氏に
1,000万円のカメラ機材を買い与えるほど
テレサテンさんはステファン・ピエールさんに
惚れており、またピエールさんもテレサテンを
愛していたと言われています。
宿泊していたホテルは1泊1,200ドル
(当時の日本円でおよそ10万円)の
最上階プライベートルーム。
アジアの歌姫にとっては、決して高い宿代では
なかったでしょう。
恋人との濃厚な時間を母国以外の土地で
ゆっくりと過ごすことは、
いつも他人の目にさらされて
気が置けない日々を過ごす一流芸能人にとっては
至福の時だったでしょう。
テレサテンさんは結婚しておらず、
独身だったので、7年という長い年月を考えると
フランス人の専属カメラマンだった
ステファン・ピエールさんとは
結婚も考えたような真剣な交際だったのではないかと
想像出来ますね。
2人はどこに行くにも一緒で、テレサテンさんが
香港やパリに滞在していた時も
一緒に同棲生活を楽しんでいたようです。
テレサ・テンさんとステファンさんは、
チェンマイのメービンホテルを宿泊先として選んだのは
『温かく空気が良いから』。
引用:https://middle-edge.jp/articles/I0000646
歌姫として致命的な『喘息』の持病があった
テレサテンさんは、1994年の年末に喘息の発作を起こし、
チェンマイラム病院に入院しています。
その年の8月にも同地『チェンマイ』を
一緒に訪れていたようですので、
2人にとって思い出の地、大好きな場所だったようです。
どこに行くにも二人で行動していた
仲良しのテレサテンさんとステファン・ピエールさんですが
1994年末にテレサテンさんが喘息の発作で入院して以降、
ホテルにからほとんど外出しなかったテレサテンさんと異なり、
ステファン・ピエールさんは、度々一人で外出する様子を
目撃されています。
外出する時間は、決まって暗くなり始める夕方頃。
一体どこに出掛けていたのでしょうか。
ステファン・ピエールさんが人目を忍んで
出掛けていたのはメービンホテルの近くの
ナイトバザールに出店していたある屋台でした。
店を切り盛りしていたのは
30代の女性と20代の小柄な男性。
『テレサ・テンの真実』(徳間書店刊)によると
屋台を注意深く見ていると
屋台を訪れるのは、外国人の観光客たち。
外国人観光客らは店員に何かを話すと
小柄な20代とみられる男がバイクでどこかに外出し
20分ほどする タ バ コ のようなものを
外国人観光客らに受け渡す様子が頻繁に
目撃されていたのです。
この屋台が何を業態としていたかは不明ですが
ステファン。ピエールさんが
店の常連客だったことは認めており、
時々テレサテンさんを連れてきてもいたようです。
テレサテンさんは『青物の野菜炒め』を
よく食べたという証言もあるので、
飲食店の屋台だったと考えられます。
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テレサテン死因の真相②, 恋人ステファン・ピエール今何してる?
これら怪しげな屋台での行動から
〇麻使用の疑いがテレサテンさんにかけられたことも
ありました。
心配した日本の音楽関係者が、現地に出向き
テレサテンさん本人に使用の有無を尋ねたことも
あったようですが、
テレサテンさん本人は頑なに使用をしていないと
主張したようです。
またこの恋人ステファン・ピエール氏と
交際するようになってテレサテンさんが
変化していったと伝える多くのメディアも
ありましたね。
不思議なのは、これだけ蜜月な関係を築きあげてきた
恋人同士だった二人が、
テレサテンさんの死の際に、
恋人だったピエールさんはそばにいなかったというのです。
日中のほとんどを風邪の療養のため
ホテルの部屋で過ごしていたテレサテンさんは、
5月8日午後5時15分頃、
咳が収まらず、自ら救急車に連絡。
すぐチェンマイラム病院に運ばれるも道路が渋滞。
通常10分で到着する病院に30分もかかっで到着。
病院到着後、すぐに緊急治療室に運ばれたものの
テレサテンはその時既に亡くなっていました。
アジアの歌姫は救急車の中で
無念の死を遂げたのです。
ポール(ステファン・ピエール)は
テレサテンさんが救急車を呼ぶ
少し前に一人で外出していました。
午後6時30分にホテルに戻り、
テレサテンさんのいるチェンマイラム病院に
到着したのは午後8時過ぎだったようです。
病院まで10分と言われていますから、
ホテルの部屋に戻ったときには、
テレサテンさんの不在を外出と思って
不審に思わなかったのでしょう。
ピエール氏は、遺体となって対面した
テレサテンさんのそばに
ずっと付き添っていたといいます。
もし、テレサテンさんの死因だと言われる
喘息が本当だとするならば、
死に至るような喘息の症状が出ている時に
どうしてそばにいてあげられなかったのかな?
と思ってしまいます。
あっという間の出来事だったのかもしれませんが、
苦しい時にそばにしてほしかったのは
おそらくこの恋人ピエールさん以外には
いなかったでしょう。
アジアの歌姫の突然の死を不可解だとする
アジアの各メディアは、死の真相を知ろうと
恋人ピエールさんに
当然のように質問を投げかけます。
意味不明とも思える恋人ピエール氏の
発言にメディアは混乱しながらも
テレサテンさんの急死で
きっと情緒不安定になっていたのかもしれないと
寛容になる一方、
テレサテンさんの死の真相は
さまざまな憶測が飛び交い、
いまも エ〇ズ疑惑や薬〇疑惑など
様々な噂も絶えません。
恋人ピエール氏は、その後も何度か
メディアに出演していますが、
現在の詳しい様子は分かっていません。
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中国語スパイの真実?若い頃の功績で土葬?
アジアの歌姫、テレサテンさんが患っていた
持病の喘息はどれほど酷かったのでしょうか。
調べていくと、亡くなる半年前、
94年の年末にも、激しい発作が起きており
一時は危篤状態に陥っていたようです。
テレサテンさんの恋人ステファン・ピエールさんは
かなりのヘビー・スモーカーで空調を良くするためか
部屋の冷房を強くしていたようです。
喘息患者にとってこの強い冷房環境は最悪だと言います。
1994年12月30日午前9時に
喘息の発作を起こしたテレサテンさんは医師をホテルに呼び
意識を失うほど生死の境目にいながら、
奇跡的に翌31日の大晦日には発作は収まったため
テレサテンさんは、退院したいと強く望み、
ホテルに戻っています。
テレサテンさんの喘息の症状は
かなり深刻で、発作が起こるのも
本当に突然のことだったのかもしれませんね。
いまでも、死の真相を巡って様々な意見が
噂されているのは、
テレサテンさんの親族が、司法解剖を拒否したことに
起因しているようです。
急死だったことから、当初大当局は
テレサテンさんの司法解剖を親族に求めたようですが
どういうわけか、親族は拒否したようです。
日本人的感覚であれば、
女性の体にメスを入れることに
嫌悪感を示したとも考えられますし、
あるいは宗教的な理由なのかもしれません。
また「電視日報」が伝えることには、
テレサテンさんは香港の女性映画監督と
恋愛関係だったとも伝えられており
エ〇ズの噂がそこからも持ち上がっているようです。
実兄のフランク・テン氏は
とメディアの過剰報道を一蹴しますが
噂が司法解剖を拒否した理由は明らかにしていません。
テレサさんの遺体は、
死後3日経ってから、
台湾・台北松山空港へと運ばれました。
アジアの歌姫は、日本で言うと、
美空ひばりさんくらいのビッグスターでしょうか。
国民的歌手だったテレサテンさんの死を悼み
台湾政府は急遽「台湾政府葬儀委員会」を発足。
国葬並みの葬儀が5月28日に
台北市第一殯儀館で行われました。
台湾国民はももちろん、日本や香港、
その他アジア各国から3万人のファンが
テレサテンさんとの別れに
集まったといいますからその人気は
やはり凄まじかったのです。
私も初めて知ったのですが、
テレサテンさんの遺体は
台湾でも一般的に行われる火葬ではなく
土葬だというのです。
これは一体どういうことなのでしょうか?
防腐加工が施され、土葬されたテレサテンさんは
これまでの功績を讃えての土葬での埋葬のようです。
これにより没後10年以上経っても、
生前の姿であり続けることが可能だといいます。
ちなみに台湾でこのような形で土葬されているのは
蒋介石、蒋経国、そしてテレサ・テンさん
この3人のみと言いますから、
テレサテンさんが台湾国民にどれほど
愛されていたかがよく分かります。
台湾・台北市から車で1時間。
最北端・金宝山墓地に現在
テレサテンさんは眠っています。
引用:https://middle-edge.jp/articles/I0000646
台北市内と太平洋が一望できる墓地で、
その入口の地面にはCDを形取ったモニュメント、
テレサテンさんの曲が日本語と北京語、英語
の3ヶ国語で1時間毎に流れるといいます。
中国語のスパイ疑惑まで
過去には浮上したテレサテンさん。
人気者ゆえに死の真相も
その半生も謎に包まれていることがあります。
しかし、テレサテンさんが歌ったたくさんの
歌たちを愛するファンは世界各国にたくさんおり、
またテレサテンさんの人柄を愛するファンは、
世代を超えて、これからも歌を語り継いでいくでしょうね。
国民栄誉賞も授与されているアジアの歌姫、
テレサテンさんの死去から
もう23年の月日が経つのですね。
改めてテレサテンさんのご冥福を
心よりお祈り致します。
最後までお読みいただき有難うございます。
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