手塚治虫が描くヒロインは、理想の女性だった?
『ブラックジャック』の『ピノコ』の
モデルと言われた娘、手塚治虫は
仕事熱心な父親が嫌いだった?
嫁悦子とは、晩婚で理想の鉄子肌とは違う女性だった?
スポンサーリンク
目次
手塚治虫記念館はリニューアル工事中、生誕90年迎え。。。
手塚治虫さんが亡くなってから、30年。
現在、手塚治虫さんが
5歳から24歳までの約20年を過ごした
宝塚に建てられている手塚治虫記念館は
リニューアル工事中で、3月末まで
休館しているようですね。
引用:http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/tezuka/
開館時間:9時30分~17時(入館は16時30分まで)
定期定休日:毎週水曜日(祝日と重なる日は開館)
料金:
大人
個人:700円
団体(10人以上):560円
学生(中学生・高校生)
個人:300円
団体(10人以上):240円
小人(小学生)
個人:100円
団体(10人以上):80円
【管理・運営】宝塚市
【開館日】1994年4月25日(月曜日)
手塚治虫記念館についての詳細はコチラ⇒リンク
亡くなってから尚、ファンに愛される
日本の偉大な漫画家です。
改めて手塚治虫さんの生い立ちについて
調べてみました。
スポンサーリンク
手塚治虫生い立ち,小学校時代はいじられキャラで初恋は宝塚の子だった?
本名:手塚治(てづかおさむ)
生年月日:1928年11月3日
出身地:大阪府豊能郡豊中町
死没日:1989年2月9日
享年:60歳
死没地:東京都千代田区麹町
学歴:池田師範附属小学校⇒
職業:漫画家、アニメーター、アニメーション監督
称号:勲三等瑞宝章
活動期間:1946年 – 1988年
ジャンル:少年漫画、少女漫画、青年漫画
【代表作】:
『新寶島』
『ジャングル大帝』
『鉄腕アトム』
『リボンの騎士』
『火の鳥』
『どろろ』
『ブラック・ジャック』
『三つ目がとおる』
他多数
【受賞】:
第3回小学館漫画賞(『漫画生物学』『びいこちゃん』)
第1回講談社出版文化賞児童まんが部門(『火の鳥』)
第28回ヴェネツィア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞(劇場アニメ『ジャングル大帝』)
第4回日本漫画家協会賞特別優秀賞(『ブラック・ジャック』)
第1回広島国際アニメーションフェスティバルグランプリ(『おんぼろフィルム』)
第21回文藝春秋漫画賞(『ブッダ』『動物つれづれ草』)
第1回講談社漫画賞少年部門(『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』)
第29回小学館漫画賞(『陽だまりの樹』)
第10回講談社漫画賞一般部門(『アドルフに告ぐ』)
第10回日本SF大賞特別賞受賞
第19回日本漫画家協会賞文部大臣賞
アイズナー賞(没後の受賞)、他
公式サイト:手塚治虫公式web
手塚治虫公式facebook
引用:Wikipedia
手塚治虫(本名・治)さんは
大阪府豊能郡豊中町(現在の豊中市)出身。
父・粲(ゆたか)と母・文子の長男として
生まれました。
引用:https://tezukaosamu.net/jp/about/album01.html
本名は治(おさむ)さんですが、
時代は明治時代。
元号から漢字1文字をとり、
命名されたようです。
≪手塚治虫4歳、両親と妹と≫
引用:https://tezukaosamu.net/jp/about/album01.html
5歳の時に、祖父が他界し、
それまで祖父が住んでいた屋敷がある
兵庫県川辺郡小浜村(現在の宝塚市)川面(かわも)引っ越し。
時代は戦前。
当時の宝塚周辺は、箕面有馬電気軌道の乗客増加を狙って
田園風景の中に開発した新興の住宅地が散在する未開発の土地。
そんな宝塚の中心地に
・宝塚大劇場(宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の本拠地、)や
・宝塚新温泉(現:宝塚ファミリーランド)
・宝塚ルナパーク
などが相次いで形成され、
行楽施設として注目をあびていました。
父親は、宝塚倶楽部の会員だったため
幼い頃の治虫少年は、
父親と一緒に宝塚ホテルのレストランで食事
母親とは宝塚少女歌劇団での観劇
をしていたようです。
日常の中に宝塚があり、
自宅の隣には、
宝塚少女歌劇団の男役トップスターである
天津乙女(本名:鳥居榮子)
雲野かよ子(本名:鳥居華子)
池邊鶴子(本名:鳥居久代)
姉妹が住む鳥居家があり、
≪家の隣に住んでいた宝塚歌劇のスター天津乙女さん(左端)、雲野かよ子さん≫
引用:https://tezukaosamu.net/jp/about/album01.html
宝塚音楽学校に入学したい娘と家族が
お百度参りによく訪れていたようです。
宝塚の舞台を目指すような女性ですから
綺麗な女性が多かったのでしょう。
治虫少年の初恋相手は宝塚少女歌劇団の生徒
だったようです。
小学校は池田師範附属小学校
(現在の大阪教育大学附属池田小学校)に入学するのですが
母親が東京出身だったため、
標準語しか話せず、クラスメイトから浮いた存在に。
≪小学校4年生時(左) 中学入学時(右)≫
引用:https://tezukaosamu.net/jp/about/album01.html
小学校2年生の時のあだ名は「ガヂャボイ」だったようです。
当時の手塚治虫少年は天然パーマでグシャグシャの髪。
身長はとても小さく痩せており、
運動は苦手だったそうです。
またその当時からメガネをかけており、
分厚いレンズのメガネもイジられる対象になっていたようです。
そんな手塚治虫少年にも
唯一の友人(石原実さん・大阪淀屋橋石原時計店社長)がおり、
その友人が、治虫少年に様々な本や図鑑を
家で見せてもらったことで、
宇宙や科学、昆虫など生物についての興味関心が高まり
後に治虫というペンネームをつけるまでになっています。
友人の提案で宇宙や科学についての本を作って
クラスのみんなに配ろうという話になり
2人は実行に移します。
早速ガリ版で印刷して配ると、
クラスメイトに大好評で、
次第に続編を期待されるほどになるのです。
スポンサーリンク
手塚治虫生い立ち,嫁岡田悦子の顔画像は?
小学校3年の時に、
最初の漫画「ピンピン生チャン」を完成。
描いては同級生に見せ、
また続編を希望され、また描いてを
繰り返すほど、漫画制作に没頭していきます。
小学5年生の頃には長編漫画「支那の夜」を完成。
この頃には、教師の間でも作品を認められるまでに。
いつしかいじられキャラではなくなっていました。
この当時に描いた漫画の一部は
今でも手塚治虫記念館に保存されているようです。
大阪府立北野中学校(
現在の大阪府立北野高等学校)に入学した頃には、
軍事色が強まっていった時期で、
漫画を楽しく描けるような時代ではありませんでした。
漫画を描いているのを共感に見つかると
殴られるなどしたようです。
それでも作品は描き続けていました。
体の弱い者が入れられる強制修練所に
入れられてからは、学校に行く代わりに
軍需工場で働くことに。
勤労奉仕で監視哨をしていたときに
大阪大空襲に遭遇、頭上で焼夷弾が投下された経験も。
幸い九死に一生を得ましたが、
この体験以降、工場に行くのをやめ、
家にこもってひたすら漫画を描くようになるのです。
高校の進学希望は、旧制浪速高等学校でしたが
漫画ばかり描いていたため、不合格。
同年7月に大阪帝国大学医学専門部の試験を受け
こちらは見事合格。
学制上は旧制医学専門学校と扱われ、旧制中学校からの入学が可能だった
高校卒業していない手塚治虫さんですが、
戦時中という時代背景もあって
医学専門学校の位置づけの
医学専門部に入学できたのです。
(大阪大学(旧・大阪帝国大学)附属医学専門部は
1951年に廃止されている)
後に医師国家試験を受験する
手塚治虫さんですが、
漫画への情熱は冷めることなく、
医師国家試験受験時には、
「ジャングル大帝』や「鉄腕アトム』
など連載の執筆を既に受け持ちながら合格しました。
医師免許を取得した手塚治虫さんは当時24歳。
医師合格の翌年には、
「リボンの騎士」の連載が始まっていますので
既に売れっ子漫画家でした。
結婚したのはその5年後のことでした。
引用:https://tezukaosamu.net/jp/about/album01.html
岡田悦子さんとの間には
1男2女と3人の子供がいます。
スポンサーリンク
嫁は鉄火肌で娘手塚るみ子は父親が嫌いだった?死因は?
幼少期から、宝塚のトップスターを隣人に持ち
初恋相手も宝塚の子だったという
手塚治虫さん。
女性への理想も高いのでしょうか?
好みの女性は、「鉄火肌のおもしろい子」
芸能人でいうと、月丘夢路さんや淡島千景さんのような
女性なんだそうです。
結婚まで、多忙のためデートが2回だったという
嫁岡田悦子さんを、理想通りの鉄火肌な女性と思って
結婚したのに、どうも違ったと後に語っています。
おそらく、しおらしい女性らしい妻だったのではないでしょうか。
しかしそうはいっても子供が3人生まれていますし
夫婦仲はとても良かったと思われます。
気になるのは、手塚治虫さんの子供たち。
特に『ブラックジャック』の
ピノコのモデルと言われている長女、
手塚るみ子さんは、
父親のことを嫌いだったのでは?
という噂があります。
調べてみると、仕事に没頭して父親との
思い出があまりないため幼少期は
娘として寂しい思いをしていたようです。
しかし、手塚治虫さんは
作品に娘を投影して、しっかりと家族への
愛情を表現していたようです。
手塚治虫さんの死因は、
スキルス性胃がん。
今でこそ、がんは早期発見、治療すれば
治る病気になっていますが
30年前の当時は、いまと時代が違います。
ガンが治りにくい病気とされている時時代で
そのため告知もされていませんでした。
手塚治虫さんへのがん告知も
行われませんでしたが
手塚治虫さん自身はおそらく分かっていたのでは?
と言われています。
当時描いていた作品の主人公が
ガンで亡くなるという結末に。
最後まで仕事をさせてくれと言っていたといいます。
漫画は、手塚治虫さんの全てだったのですね。
ご存命であれば現在90歳。
改めて、手塚治虫さんの作品を
読んでみたいと思いました。
最後までお読みいただき有難うございます。
スポンサーリンク
当時、父のことを、仕事ばかりで家族を顧みない人と思っていましたが、本当はこんなにも娘の様子を気にかけて観察していたのだな、と改めて思い知らされました